「ごめんね、寝てた?」
「うーん...美樹?どうしたの?」
雪枝が、いかにも眠そうな声で電話に出てきた。
「ちょっと相談したいことがあるんだけど...」
「なによ今頃...何時、今?」
時計は夜中の1時半を少し過ぎていた。
「ごめんなさい...。どうしても今話をしたかったから...。やっぱり明日電話するね」
「何よ、どうせもう起こしたんだから言いなさいよ。どうしたの?」
雪枝は私が彼女を必要としていることを察してくれたらしく、そう言ってくれた。
いつもそうだけど、彼女は私が困っている時、必ずどんな時でも聞いてくれる。私もそれがある程度分かっていたから、こうして夜遅くても電話してしまうのだろう。(本当に特別なとき以外こんな夜中に電話はしないけど)
「私ね、今日修に”留学したい”って言ったの」
「...何?...」
「だから”留学したい”って言ったの」
「ちょっ、ちょっと待って、”留学したい”ってどう言うこと?」
どうやら、彼女は目が覚めたらしく、急に声がしっかりしてきた。私は、就職情報誌を見て思ったことや、転職したいと思っていること、八城弘子との会話などを整理しながら説明した。
「話は分かったけど、ちょっと早すぎない?そこまで持っていくの」
「えっ?」
「だって、就職情報誌を見たのが月曜日で、そのホテルの人...」
「八城弘子」
「そう、その八城さんに会ったのが木曜日で、そして昨日修君に”留学したい”でしょ?ちょっと早すぎない?って言っているのよ」
「だって、雪枝も私がホテルに入りたかったの知ってるでしょう?」
「知ってるけど、だからって一気に留学に結びつかなくてもいいんじゃないかな?」
雪枝がそう思うのはもっともなのかもしれない。何の前触れもなく突然”留学”なんて言い出したら、誰でもビックリするだろう。
「...実はね、留学のことは突然思いついた訳じゃないんだ」
「どう言うこと?」
「私ね、大学生の時に心理学のゼミで、アメリカの大学と半年間の交換留学の話があったんだ。結局行かなかったけどね。あのとき、結構”行きたいな”なんて思ってたんだ。後で行った人達の話を聞いたときは、ものすごく後悔したの。”あぁ、やっぱり行っとけば良かったなぁー”って。だから今度チャンスがあったら、絶対行こうって思ってたの」
元来、好奇心旺盛な私には、アメリカの大学という未知の世界は、大変魅力的だったのだが、色々な事情があり実現しなかった。
「えっ、そんなの初耳だよ!全然美樹そんなこと言ってなかったじゃない!!」
「ごめんね。もし決まったら言おうと思ってたから。」
「まあ、それはいいとして...でも私、美樹の”商品価値”って言うの、分かる気がするなぁ」
雪枝の声がちょっと小さくなったような気がした。
「この前美樹に言われて思ったんだけど、私も2年間会社で何やってきたんだろうって。”私はこれが出来る”って言える物何もないもんね」
雪枝が少し寂しそうな声でそうつぶやくように言った。二人は少しの間黙っていた。暫くすると、雪枝が口を開いた。
「修君は何て言ったの?」
「彼も突然でビックリしてた。初めはもうちょっと待って、様子を見た方がいいんじゃないかって言ってたけど、色々と私の気持ちとか、今の会社の事とか、今のままじゃいけないって思っていることとかを話したら、最後には”半年、1年ぐらいだったら、美樹が一番やりたいことをやって見れば。そういう時間も必要なのかもな?”って言ってくれたわ」
「へー」
雪枝はちょっと意外そうな感じでそう言った。
「修君って、結構理解ある人なんだね。私だったら、彼が留学するって言いだしたら、行かないでって言っちゃうかもね。だって、ずーっと会えなくなるわけでしょう? でもさあ、美樹どのくらいの留学を考えてるの?」
「まだはっきりとは決めてないんだけど、半年から1年ぐらい行って来ようかなって思ってるの。まあ、そこら辺はお金と私の英語力の上達次第かな?出来たら専門学校か何かに行けたらいいんだけどね。そこまでは無理かな?お金もないし。今更そこまで勉強しようと思うかどうか」
今の私には、ちょうど車を買おうと思い、1年ほど前から積み立ててきたお金と、小さい頃からちょっとづつ貯めてきた郵便貯金があるぐらいだった。それでも両方合わせると約100万円ぐらいにはなった。まだ良くは分からないけど、これぐらいのお金で、外国に行って勉強すると、そのくらいが限度かな?と何となくそう思っていた。
「ねえ、雪枝はどう思う?」
「え、どう思うって?」
「だから、留学って事」
「えっ、まあ、修君じゃないけど、私も急でビックリしたわ。でも、なんか美樹らしいなって思っちゃった。前から仕事が面白くないって言うのはお互い言い合ってたじゃない?私なんか文句言っている割には、だからどうしようって事はないけど、美樹はちゃんとそれを変える努力をしているもんね。私、美樹のそう言う前向きなところ大好きだよ」
”前向きなところ”。本人はそれほど意識していないのだが、他人から見るとそう言う風に見えるのだろうか?彼女にそう言われちょっと考えてしまった。
「でもね、美樹。半年や1年ぐらいで英語が旨く喋れるようになると思うの?語学って、そんなに甘いもんじゃないと思うけど...」
「えっ、どう言うこと?」
「よく考えても見てよ。言葉はおろか、文化も違うし習慣や食べ物まで違うんだよ?それに、アメリカって、アメリカ人だけじゃないんだよ、他にもたくさんの人種が集まって生活しているから、それらになれるだけで半年はかかっちゃうんじゃない?それに...」
「それに?」
「半年とか1年の社会人としてのブランクがあって、日本での再就職はかなり難しいんじゃない?」
「...雪枝は私の留学には反対なんだ...?」
私にはちょっと意外だった。雪枝は絶対に賛成してくれると思っていたからだった。
「反対って訳じゃないけど、もうちょっとよく考えてからでも遅くはないんじゃないかなって言ってるだけよ」
雪枝の言っていることが間違っているわけじゃない。でも私は大学生の時のような後悔はもうしたくはなかった。
「雪枝、私ね、もう二度と大学の時みたいに、ホントはしたかったことを我慢して後悔したくないんだ。今行かないとまた絶対後悔するのは分かっているし、留学なんて今行かなかったらもう行けないよ」
ちょっと感情的になり出した自分を、精一杯押さえながら続けた。
「もうすぐ25歳になるでしょう。仮に1年行ったとして、帰ってから3年はちゃんと働きたいと思っているから、28歳になるじゃない。結婚もしたいし、それに子供を産むとなると、今しかないの」
暫く雪枝は黙っていた。
「本気なの?」
「うん、何となくやりたいことが見えてきたから、今はそれに向かって頑張りたいの。今の会社に残っていても自分がダメになるだけだと思うし、そういう状態にいる自分も嫌いだから」
「一度こうと決めたら頑固だからね、美樹は」
雪枝はため息と一緒にそう言った。
「そこまで美樹の気持ちが固まっているなら私はいいと思うよ。人生一回きりなんだし」
そうだ、雪枝の言う通りだ。人生1回きり、面白くもない仕事を続けて後悔するより、やっと見えてきた自分のやりたいことにチャレンジした方がいいし、失敗しても納得がいくだろう。雪枝の口から出たその一言で、なんだか自分の中であと一歩踏み切れないで決めかねているモヤモヤとしていた物が、スーッと消えていくのを感じた。
「そうよね、やるしかないか!」
「うん」
「じゃ、早速辞表書かなくっちゃ」
「えっ?」
雪枝が、突然大きな声で叫んだ。
「何よ、急に大きな声出して」
「美樹、今辞表って言わなかった?」
「うん、何で?」
「あなたまさか、すぐ辞める気なの?」
「そうよ、だって仕事に何の未練もないし、これから色々調べなきゃいけない事あるでしょ。仕事してたら色々調べられないじゃない?それに親に留学のこと話すときに、会社辞めてたらあまり反対されないじゃない?」
「ちょっ、ちょっと待ってよ、あなた親にもまだ話していないの?」
「はっ、はっ、はっ、実はまだなんだ。だってこの事知っているの雪枝と修だけだもん」
雪枝は大きなため息を吐いていた。
「呆れた。大丈夫?ご両親ビックリするわよ」
「大丈夫よ、何とか親は説得するから。ただ、変に会社にいたままだと、色々言われて止めさせられそうだから、辞めた後に説明するわ」
「知らないよ、どうなっても」
「大丈夫、大丈夫」
実は私もちょっと不安だったけれど、まあ何とかなるだろうと思うようにしていた。
「それよりさ、課長に何て言おうかな?」
雪枝が笑いながらこう言った。
「どうせなら、今までのうっぷんを全部晴らして辞めたら?色々いじめられたんでしょ?言いたいこと言って気持ちよく辞めたら?」
「...そうね。ちょっとあの親父に分からせないとね」
「ちょっと、冗談よ、本気にしないでよ」
慌てて雪枝が言った。
それから、ああだこうだと暫くどんな事を書くか、冗談交えて話した。結局雪枝の”美樹らしく”がキーワードとなり言いたいことを率直に言うことにした。
「まあ、どんな事があっても私は美樹の味方だからね。何かあったら、必ず言うんだよ」
そう言って雪枝は電話を切った。